“明日は何を新しく始めますか?”
これができれば目標管理は間違いなく成功する

グローバルスタンダードとは

“グローバルスタンダード=世界標準” という言葉が独り歩きしていますが、真の定義は明確ではありません。 あたかも経済理論において “均衡” は一瞬達成されたその直後、参加者による経済的判断により不均衡状態に戻り、ふたたび均衡を求める活動が始まるというのと同様に、世界標準というのも固定的なものでなく、流動的な目標ととらえたほうが理解しやすいかも知れません。  モノと情報が国境を越えて瞬時に移動できるようになった現代社会ではどのような経済活動でもグローバルな視点からの考察が欠かせません。 日常の食料品でも多くは輸入品でありますし、原材料段階にいたれば海外市場への依存度はきわめて高くなっています。 その結果純国産の品であっても、市場における価値は他の輸入品、国際市場における価格変動の影響を何らかのかたちで受けることになります。 さらに、企業活動においても株式を上場した途端、世界中の投資家の眼に晒されることになりこのような投資家がもつ統一的な判断基準でものごとが決められる恐れが出てきます。 バブル期以前の日本の株式市場でのPERは40倍近くあり先進諸国の中でも際立って高かったのですが、その後の市場の自由化により外国人投資家が参入することによりPERは平均的な20倍近辺になってきています。  勿論、外国人が投資する会社と興味を示さない会社がありますのでここの企業に対する影響度は大きく異なります。 ただ、常に外国人投資家の投資対象となる可能性はあるということは最近話題になったTOBや株主総会での株主提案でも明白になっています。

地域特性が重要

一方で、各地域の特性や時間的なずれ、需給バランスといった条件がありますので現実的には地域の特性に合ったシステムを構築することが最も効率的になります。 その結果、世界標準との整合性をどのようにとるかという厄介な問題が生じます。 単に両システムを比較して必要なズレを解消するということではなく、そもそも各々のシステムがおかれている状況を把握することが第一で、その上で差異分析、ベストな方策の探索と決定そして実行というプロセスが必要です。 異なる文化で発展したシステムをそのまま導入することは可能ですが、結局コストパフォーマンスの低いものになってしまう可能性が大きくなりますので、何等かの修正が必須です。 応用問題をいかにして解くかという課題は常にあるわけで、特別なことではありませんが正解が無い課題であることも否定できません。 それぞれの企業や組織がそれぞれ自らのシステムに最も適合した形を求め、アイデアを凝らすところに真の意味での企業間の競争があります。 標準形を導入するということではなく、各々の特徴を生かした形を追求するというチャレンジがあるわけで、これが真の意味での国際競争力になるのではないかと思います。

日本の学校教育の弊害

日本の学校教育は正解を覚えるという暗記教育が主になっていますので、正解が多数ある、または正解は無いが正解に近いものを探すという思考方法はなかなか理解できないかもしれません。 本当の創造性というのはどちらの訓練方法から育まれるのでしょうか。 ここに一つの典型的な例題を示し皆で考えて見ます。

日本の算数問題
  2 + 8 = □

イギリスの算数問題
  □ + □ = 10

前者の問題では回答(正解)は “10” で一つしかありませんが、後者の問題では
  2+8=10 でも
  4+6=10 でも
  0+10=10 でも正解です。
このような訓練を長く続けていると思考方法に大きな差が出てくると思いますし、正解が一つではないというのはとても大切で、世の中に一番は一つではないという考えにも繋がるかもしれません。

保守の中での革新

イギリスは保守的な国というイメージがありますが、このような算数の問題で教育しているように変化と創造性を大切にしています。 そしてサッチャー政権以来の改革路線によって10数年にわたって好景気を維持している事実はあまり知られていません。  また創造性という点からも大多数のブロードウェイミュージカルの原作がロンドンのミュージカルであり、“キャッツ”のような新しい発想での舞台に見てとれます。 もう一つ“ウィンブルドン現象”という言葉で語られるような開放政策も早くからとられています。 ロンドンの金融市場が世界の中心であり続けるのもこのような政策のおかげであり、ポンドはユーロと別個の通貨として存在価値を示しています。

”一番は一人だけではない”が創造性の源

学校での序列は勉強だけでなく、かけっこが一番でも、歌が一番うまいとか、絵がうまいとか評価の尺度は様々にできます。 なぜかといえば、社会に出てしまえば勉強ができるだけの人間の集団では社会が成り立たないからです。 スポーツの世界も芸能の世界も、またグループをまとめるという能力が必要な場面は沢山ありますが、勉強のできる人がすべてに優れているわけではありません。 集団は多様性があって始めて成り立つとも言えます。 考えてみれば学校での評価が試験の点数だけというのもおかしな話なのかもしれません。 結局、学校とは何か問う本質的な問題に突き当たるのかもしれません。 もちろん、勉強ができる人は必要ですが社会で必要とされている人材は何で、それらをどのように育成し、評価し、適材適所の配置をするかということが最も大切なことでしょう。
実社会においては常に競争にさらされます。 企業間競争もそうですし、開発競争も同様です。 特許も決して二番手には与えられませんので、まさしく競争です。 それにもかかわらず最近の日本の学校教育は競争にほうかむりして、あたかも世の中に競争が無いかのように見せかける、競争は悪いことだという意識を醸成しているように見えます。 そして、社会に出た途端、現実の世界に出会うどころか創造性を生かせ、競争に勝てとはっぱをかけられてもすぐに対応できないかもしれません。 グローバルスタンダードという考え方を導入すればするほど、このような競争を勝ち抜く必要がありますが、ここで大切なことは常に競争の場はたった一つではないということです。 グローバルスタンダードの影響を十分承知した上で自分の得意な分野を見つけ出し、特定の組織、時期、場所等に最適な競争条件を作り出すという柔軟な発想と多様性の追求が求められます。