“明日は何を新しく始めますか?”
これができれば目標管理は間違いなく成功する

コロナに始まりコロナで終わる2020年の意味を考える

今年はコロナで埋めつくされてしまいましたが大事なことを忘れてはならない

ということを改めて認識する必要があります

それは「政治は結果が全て」ということですが、企業トップにも当てはまることです

政治は常に流動的で誰にもわからない将来の判断を迫られますが事後的にその判断が

正しかったのか或いは間違っていたのかを問われます

論理的、法的には誤りでも結果が良ければ国民は従います

逆に法的には正しく、論理的であっても結果が伴わなければ退場を迫られます

これを前提に先の安倍元首相の会見を評価してみました

自分は法律違反はしていないということですが、結果的に誤った答弁をし、事実と

異なる説明を国会の場で行ったという事実は消えませんし、結果として事実誤認が

あったのであれば政治家としての責任は免れません

議員辞職に値します

何故か?

 これだけ話題になったにも関わらず秘書に真剣に問い合わせたのかが不明

 秘書が嘘をついていたのなら、秘書に対する責任追求或いは処罰はどうしたのか

 秘書が政治資金報告書に過誤で不記載にしたのなら、そのような人物を

  全面的に信頼して良いのか

そして最後に、結果として国会で誤った答弁を何度もしたわけですから秘書に対する

監督責任、事実確認を怠った怠慢があるわけで政治家としての資質に欠けている

ことは明白です

防衛省からレーダーで国籍不明機が首都突入しているという報告を受けて防御

ミサイルの発射を指示したらレーダーの見誤りだったという報告を事後に受けても

取り返しはつかず重大な責任が発生し、誰かのせいにすることはできません

報告が間違っていても確認の手順を取らなかったことに対する責任は取り返しが

つきませんし、間違った情報だったから自分に責任はないとは言えません

企業でも政府でも責任者は部下の過ちでも自ら腹を切る覚悟がなければなりません

振り返って政府のコロナ対策が後手後手にまわり有効な対策や明確な指針が出せ

なかった大きな理由は「政治主導」ではなく「役所や審議会」に任せて結果責任を

避けようとした結果ではないでしょうか

メルケル首相やアーダーン首相そして蔡英文総統のようなリーダーを持たない不幸

をもう一度噛み締めてみる必要があり、また偶然にも皆女性です

女性活躍と言いながら夫婦別姓については消極的な老害男性中心の議員に対しても

明確な投票行動で新しい方向と将来への希望を抱けるリーダーを選別しましょう

携帯電話料金

政府が携帯電話料金の引き下げを目指して「競争原理を導入」したいとのことですが

本質を捉えているのでしょうか

アダム・スミスの富国論によれば完全で自由な市場では競争原理が働き「見えざる

神の手」によって需給の均衡点で適切な価格が形成されるとされています

しかし、いつの時代にも「完全で自由な市場」は存在せず、何らかの規制が必要で

規制が存在する分だけ本来の適正水準での均衡点からは異なる価格形成がなされる

というのが現代の共通した認識です

それでは日本の携帯電話市場はどうなっているのでしょうか

限定された電波を使う「土管」である通信ネットワークの建設・維持は認可制で

競争は著しく制限されていますがこれは諸外国とも同様です

「土管」を整備した会社はその建設費と維持費を通信料として回収しますので

通信料は高い方が有利ですし、限定された会社間ですから料金は高止まりする

傾向にあります

もし、日本のようにネットワークを持つ会社が端末販売も通信回線も同時に販売

できれば独占的な地位を維持できます

当初SIMロックがあってA社の端末を購入するとA社の通信回線を使用せざるを得なく

なると高い通信料が維持され、競争は通信料金ではなく、いかに多くの端末を売って

通信料を得るかということになりますから端末の値引き販売で囲い込みをするという

構図ができあがりました

SIMロックが消滅した後は他の回線への切り替え手数料で囲い込み、今回それも

消滅するのでようやく少し競争できるようになりましたが、本質は回線を独占的に

保持し続けることで格安携帯への回線使用料は高値維持できますので、競争条件は

公平ではありません

ではなぜヨーロッパでは安くなったかというと、回線使用契約と端末販売が分離

されているからでヨーロッパ共通規格であれば他国で購入した端末をそのまま

使用できるので端末の安値販売で顧客を囲い込み高い通信量を取るとこが難しい

からです

世界的に見て単価の高いiPhoneのシェアが異常に高い日本は廉価販売と高い通信料

での端末値引きの回収という歪な構造によるもので、回線使用料の競争がないことに

原因があります

本当に携帯料金を引き下げようとすれば政府が価格にまで規制をかけるのではなく

回線と端末販売を分離すれば本当の意味での競争が起きて自然に価格は下がりますし

消費者はサービス内容で通信会社を選択することができます

デジタル化は言葉の定義とデータ共通化

突然デジタル化が唱えられていますが、早急な実現は難しいでしょう

まず言葉の明確な定義が必要ですが多くの法律は解釈可能な文章になっていて

特に「等」という言葉が多用されていて、官公庁にとっては解釈でどうにでも適用

できる便利な言葉ですが、デジタル化しようとすると障害になります

言葉の定義に従ってデータは数値化され記録されますが、その基礎となる定義が

曖昧ではデータ化された数値の有効性に疑義が生じてしまいます

百歩譲ってデータ化できたとしても次の課題はデータの共通化です

全てのデータが同じ定義に基づき個々のシステム内に記憶されていなければ集計も

分析もできません

少しわかりやすく最近の新型コロナ感染症に例をとって考えてみます

一つの指標として「重症者」と「受け入れ可能病床数」がありますが現状では

各都道府県によって定義が異なるので現状では集計、比較は困難です

また、「受け入れ可能病床数」についても必ずしも今すぐ患者の受け入れが可能な

ベッド数ではなく、行政が拡大要請している将来可能なベッド数であり設備、人員

ロジスティックを考慮した結果ではないので、いつ、またどの様にすれば可能なのか

は不明ですし主観的判断が入り込んでいます

データの共通化はこれらの数字が同じ定義に基づいていることを前提に集計、分析

されるので共通化しようとしているデータが全て個別システムに蓄積されている必要

がありますから、監督官庁は必要データを認定し、そこに含まれるデータ内容を

公開し関連システムの管理者に指示し実行させなければなりません

各システム管理者はこれらを最低必要データとし、その他追加データが必要であれば

それらを追加するということになります

ゼロからスタートするのであれば比較的簡単ですが、既存のシステムやデータを

改修するのであれば莫大な時間と費用がかかりそれを指示できる協力な力が不可欠

です

たったこれだけのことでも大変な努力が必要ですしシステム改修にも莫大な費用が

かかります

しかし、やらなければならいことですから時間をかけて何故、何が、どうして

必要なのかを広く知らしめることが肝心でしょう

因みに必ず話題になる「マイナンバー」は上記3つが不明ですからいくら呼び掛け

ても登録が少ないのでしょう

本質を捉える知

社会で起こっていることのおかしなことを取り上げてきましたが、年末そして

感染拡大を受けて少し我が身を振り返りながら反省をしてみました

冒頭の言葉は、私の母校でもある東大の小宮山宏元総長が日経新聞の「私の履歴書」

で書いていた総長時代に学生に向けて発信した言葉の一つです

本質を捉える知

先頭に立つ勇気

他者を感じる

というのが三つのテーマで、優秀でもなかなか社会の先頭に立つ人材が少ない

東大卒業生に対するメッセージです

自分自身に引き換えて考えてみると本質を捉えているのですがなかなか先頭に立って

ことをなすことができなかったように思えます

他者を感じる力が強過ぎて結果の先読みをしてしまい強く出られなかったという

のが本音です

最も会社生活の中では規則破りの常習者で、最後の職場が内部監査だったことは

皮肉な巡り合わせですが規則破りをやっていたおかげで不規則な業務を見つける

ことには大変役に立ちました

何故規則破りをやっていたかと言うと時代の変化に追随できていない規則や

緊急時に状況判断して最適な行動を取ろうと思っていたからで、自分の判断には

絶対的な自信があったとも言えます

円高不況や石油ショック時に経費削減、特に海外出張の削減に対しては営業が

出張しないではビジネスが成り立たないと事業部で予算を確保し、営業部門には

自由に出張してもらい大きな成約を勝ち取ったこともあります

阪神淡路大地震の時には関西地区の責任者に全権限を与え、予算も自由、決裁も

独自判断で本社に相談無用というような超法規的な措置も取りました

先頭に立つ勇気というのはリーダーとして皆を引っ張るということのみならず

最善の判断をし、責任は取るということなのかもしれません

お陰で会社内での出世はありませんでしたが、悔いのない会社生活だったと

感じています

田植え理論

私が入社した頃は田植えは手作業でした。今のように機械であれば少人数で

素早くできるのですが、手作業だと周囲の協力がないと田植えができません

また、雨が降れば延期されますし、突然晴れたら急に田植えになります

タイミングがありますからのんびりと決められた通りにやっていては全ての作業が

終わらなくなりますし、必要な準備も整えている必要があります

また、当時は今と違ってあちこちでストがありました。会社でも◯◯闘争

国鉄(JR)△△闘争と言ってストを断行したものです

その時ある工場長曰く「田植え理論」と称してスト解消前から組合員と再開準備を

始めていました。24時間連操の電気炉を持っていた工場なのでスト解除から準備を

始めたのでは電気炉の温度上昇に半日はかかってしまいます

そこでスト解除の方向が見えて来ると組合幹部と交渉し電気炉のスイッチを入れ

監視担当者に張り付かせ、スト解除となったら直ちに操業に入るような体制を

組合と連携して進めていました

最近のコロナ対策の施策を見ていると全てが後手後手、対症療法、結果が出てから

対策を考えるので拙速、抜け穴だらけになってしまっていて田植え理論のような

準備ができていません

何をやるにも準備が必要で、その期間がどのくらい必要かというのはそれまでの

経験から十分に把握できますし、将来のことですから可能性のある事態をいくつか

シュミレーションしてそれぞれについて対策案を立案し、準備することが遅滞なく

次のステップに進める方策です

立派な学校を出てそれなりの経験があるにもかかわらずこのような準備ができない

のには二つのことが考えられます

一つは無駄なことはしない。可能性のあるオプションをいくつか考えるのではなく

結果が出ていることに対してだけ考えるという手抜き

二つ目は責任を取らない。複数のオプションを作成することの余計な予算と時間が

後で非難されないように事前準備をしないという手抜き

Time is Moneyという発想はありません

多くの国では必ずシュミレーションをしてその中から状況に合った最適解を見つける

ということをしていますので、コロナ対策で見られるような対症療法的アプローチ

では対外交渉で先手を取ることはできません

田植えの機械化で発想も貧困になってしまったのでしょうか

日本版緑の党は可能か?

ヨーロッパ特にドイツから始まった緑の党運動は小さな市民運動、あまりに過激な

主張で実現性に疑いが持たれたものですが約20年経過した現在ではドイツの

連立政権の一部になりましたし、他の国でも確実に市民権を得てきました

一方、日本ではどうでしょうか?

残念ながらここでも世界の潮流から遅れています

そこで私なりの提案を纏めてみました

“GREEN”というと“守る”と同義語と理解され“進歩”や“技術革新”を目指していない

という受け取られ方がありますがそうではありません

既に半世紀前のことになりますが、カリフォルニア州でマスキー法が制定され

全世界の自動車メーカーが達成不可能と声高に叫んでいた時、ホンダがCIVIC

CVCCを開発し四輪でも世界の主要メーカーになった事実があります

厳しい規制が技術革新を生み出しこれをきっかけに車のクリーン化は急速に進み

ました

まさに“グリーンが技術革新”を生んだのです

それではこれからのグリーンは何でしょうか

エネルギー源を再生可能資源に求め、動力としては電気が主流になるでしょう

一つの議論として発電のため化石燃料あるいは原子力が必要という主張があります

しかし水素発電をすれば、化石燃料も原子力も必要ありません

課題はどうやって水素を調達し、また電気をどうやって貯めるかというのが

技術的な挑戦です

水素自動車や高性能蓄電池と言われていますが、私は大規模水素発電を原発跡地で

行い、水素は南太平洋諸国で太陽光発電をし液体水素として輸入することを勧めます

これによって産業のない南太平洋諸国に所得を生み、液体水素タンカーで造船業

に活を入れ安定的な電気の供給で様々な電気を動力とした産業に革新を生み出す

ことで産業の活性化を促すことができます

もう一つ、小規模水力発電というアイデアもあります

農業用水などに設置し、個人あるいは数軒に供給すれば遠隔地まで送電線を引く

必要がなくなりますし、水はそのまま流れるのでなくなりません

既にこのような超小型発電機はありますが、様々な規制で実用化されていません

まさに規制改革が必要なのです

どの政党がこのような主張をできるかがこれからの政権のあり方と日本の将来を

決めるのではないでしょうか 

予見力と決断力

誰にとってもこの二つは難しいものです

株価の将来が予見でき、借金をしても投資する決断力があれば大金持ちになれること

請け合いですが、残念ながらそのような力は誰も持っていません

近年のIT技術やAI技術の進歩で将来を予測する能力は相当高くなり天気予報の当たる

確率も高くなってきましたが、膨大なデータを解析できるようになったことと気象

のメカニズムがわかってきた事が貢献しています

しかしビジネスや政治の世界ではまだまだそのような技術が十分発達していません

ので個々の責任者の判断が重要になってきます

ビジネスの世界ではマーケティング理論等である程度予見できるようになった分野

もありますが最近の業績発表で「一転黒字」とか「一転赤字」と言った事がある

ように実際には不確定要素が多く残されているというのが現実で、その為に

経営者の判断が重要です

一方、政治の世界ではもっと不確定要素が多く予見能力と決断力がより求められて

います

現在の議員を見ると官僚出身者が多くなっています

官僚の特徴は“既に起きたことを過去の例に照らして法律の範囲内で解決策を求める”

ということにあり、判断が急激にまた何の脈絡もなく変更され、それが社会に

大きな影響を与えることを防ぐことで体制の安定性、国民から見た場合予測し

やすい環境を整備することにあります

政治の世界では“将来の不明確性に対して指針を求められる”ことにあるので

官僚の発想とは正反対にあり時として新しい法律を作ることも求められます

その出身母体がどこにあれ、議員個人の資質によって官僚的発想から政治的発想に

転換することはできるのですが、最近の言動を見ると残念ながらそのような転換が

あったとは思えません

記者会見やインタビューで原稿を読みながら話をすることに明瞭に現れていると

感じられます

経営者も政治家も社員や国民から求められているのは誰にもわからない将来に

ついて明確な指針を示すことで、そのためには自らの「予見能力」と「決断力」を

磨き自らの責任で発言することでしょう

過去の偉大な経営者、偉大な政治家はこの二つを備えていたからこそ評価を得られ

ていました 

丁寧に説明するとはどういうこと?

最近の発言、特に政治家の間でこの言葉がよく使われます

丁寧に説明するとは一般的には詳細に説明すると同義語と考えられますし、当然

論理的で説明に筋道が立っていることが求められます

実際はどうでしょうか

丁寧に説明したから質問は受けません、どんな質問であれ直接的な回答ではなく

同じことを延々と説明するのであれば質問に答えたことにはなりません

説明責任が責任の所在を示すのではなく、説明の場を設けることとなりそこで所謂

丁寧な説明がなされるのでは結局何も語らず、責任の所在を明らかにせず、責任を

とらずになってしまっているのでは無いでしょうか

隠れ蓑としての丁寧な説明では会見する意味がありません

ちょうど大接戦だったアメリカ大統領選挙の結果がようやく出て民主党のバイデン

候補が次期大統領になることが確実になりました

トランプ大統領は訴訟に持ち込むと言っていますが訴えるべき不正の証拠が無く

順番が逆になっています。普通の論理思考では何らかの証拠がありそれに基づいて

訴訟を起こすのですがトランプ流では先に結論があって後付けで理由を探す事に

なることが多くあります

丁寧に説明とは対極にあるように見えますが、実際には同じような思考パターンに

なっています

事実の積み重ねから状況把握し、結論を導き出すのではなく結論ありき、しかも

その結論は絶対的に正しいという前提で判断がなされています

大変危険な思考方法で、事実がねじ曲げられてしまう危険をはらんでいます

バイデン次期大統領の演説にもあるように時として民主主義のプロセスは複雑で

忍耐を要することがありますので、簡単に結論にジャンプするような思考方法

からの脱却がますます求められこととなります

本質は何か?を問う大切さ

最近話題になったJOB型雇用で考えてみます

人口減少で日本の人口構成はピラミッド型から聖火台型に変化し若年層が少なく

なっています。それに伴い、企業でも永年勤続と年功賃金という処遇制度の

維持が難しくなりJOB型雇用ということが言われ始めました

新卒採用の若手社員を比較的定型的な仕事から始めて、徐々に階段を上がり高度な

仕事へ、それに伴い賃金も上昇するという旧来型の雇用が若年層の減少、中高年に

よるポスト独占で昇進機会が失われ、組織全体の活力が無くなり経済成長率の低下

へと繋がってしまい、一つの解決策として非正規社員の増加とJOB型雇用が出現

したと言えます

会社全体から見ると年功賃金のため、人件費が上昇しているにもかかわらず生産性の

上昇が低下し相対的なコストが上昇してしまいましたので、対応策として定型的な

仕事の非正規社員への置換と若手社員の登用のためのJOB型雇用(JOB型賃金)が

導入されたと考えられます

しかし、本質的な変化とその対応策は何なのでしょうか

JOB型雇用やJOB型採用とは職務記述書が明確で仕事の定義や責任が明瞭で

それに従って上司は仕事を割り振り達成目標と達成時期を明示するという仕事の

やり方ですから、組織全体がそのような体制になっていない限り上手な運用は

できません

多くの企業では職務記述書は漠然としており上司の責任範囲と権限、更に従業員の

職務権限と責任が曖昧になっているので継続的な上司からの指示とチェックがない

と業務が遂行できないようになっています

このような組織体制や仕事の進め方を変更したという話は聞きませんし依然として

新卒採用を継続しています

本当にJOB型ということであれば未経験者の採用はありませんし、諸外国では不景気

になると真っ先に新卒の採用が止められます。未経験者の採用は不経済だからです

人口構成の変化は現実ですし、今後少なくとも四半世紀は継続します

処遇制度を見直すのは必要ですが先ずは各企業が組織のあり方、仕事の定義

管理者教育といった本質的な課題に取り組み、その上で戦略的に採用や処遇の

制度設計を行う必要がありますが、このような議論を聞いたことがありません

技術力のある中小企業ではこのような処遇ができていることが多く見受けられ

名前やムードに捉われない本当の実力が備わっているのはどうしてでしょうか

新卒採用、入社時の序列で物事を判断し猛烈な勢いで変化している世の中の動きに

追随できていない大企業が行き詰まってしまっているのが今の状態だと感じられます

覆水盆に返らず は死語?

盆の水を流してしまえば元に戻せないという太公望の言葉ですが、言葉も一度口から

出てしまえば取り消しはできません

もちろん、言い間違いはありますがその場で訂正することはできても後から、特に

外部から指摘されてからの訂正はできません

政治家の場合はこのことが厳しく問われることになり、かつての大平首相は

「えー」「あー」という後にやっと言葉が出てくるので「讃岐の鈍牛」と呼ばれ

ましたが、本人曰く責任者の発言は多方面に影響があるので『あー』と言いながら

考えて、『うー』と言いながら文章を練って、それから言う癖がついてしまいました

とのことで、論理は明解で話した言葉がそのまま記事にできる話し方であったと

田中角栄首相が言っていました

中曽根首相も記者のインタビューを受ける時は日時を指定し、その間に周到な準備

をして対応し、発言がそのまま新聞の見出しになるような言葉だったという証言が

あります

当時の政治家は発言に対しこのぐらい慎重であり、熟慮し、意図を正確に伝えようと

していたと言うことで、それだけに政治的立場を超えて発言が重みを持っていました

これらと比較して最近の「事件」を考えると悲しいほど状況が劣化しています

某女性議員のように自らの発言を議事録を精査してみたらそのような発言があった

ので「ブログで訂正します」と言ったり、自らの著書に記述したことを質問されても

誰が書いたのか知りませんと言ったり言葉に出すことの意味を理解しているのか

疑わしくなります

発言したことを時間が経って非難されると「発言を撤回しお詫びします」と言ったり

「発言を訂正します」と言うのであれば、言いたい放題で責任は感じないと言う

ことなのでしょう

日本には俳句というたった17文字にあらゆる情景や感情を表現する文化があるの

ですが、このような熟考した言葉遣いが無くなってしまったようで悲しいことです

文化は経済がピークから落ち始めたときに栄えるという歴史があり、安土桃山文化

元禄文化といった歴史に残る時代がありましたが、文化が衰退するということは

経済のピークを過ぎて、さらに文化のピークも過ぎ、本当に没落の時代になって

しまったということなのでしょう

この停滞感を打破するのは若者ですが、最近の若者に元気がないのが心配です

明治23年を超えられない

明治23年は明治維新から23年目にしてようやく議会が開設され本格的な民主主義

の端緒についた時です

明治維新で徳川幕府は倒れ天皇制に復帰し薩長を中心とした新政府ができ各官庁も

創設されましたが所謂『明治革命政府』であって選挙によって選ばれた政府では

ありませんし、現代のような議院内閣制でもありません

当初は首相と参与による少数の独裁的な政府で、のちに内閣制度が整備されましたが

現代の内閣制度とは異なるものでした

混乱からの脱却、新しい政府機関の創設、諸外国との交渉、富国強兵、財政基盤の

整備といった喫緊の課題が山積されていたので選挙による代議制や議会の開設は

後回しにして山積する課題の解決を優先させました

しかし西南戦争後明治も10年を経過する頃から自由民権運動が活発になり、主に

議会の開設が要求されることとなりようやく明治23年になって最初の帝国議会が

開かれました

もちろん非常に制約的な選挙によって選ばれた議会ではありましたが形式は整った

ものの議院内閣制ではなく、元老院の推挙に基づき天皇から大命降下されるという

形式でしたから議会の力は限定的でした

徳川幕府の時代から近代化を急速に進めなければならなかった当時の日本では

効率性と即効性、行政中心の施策による急速な改革が行われたため、様々な法律も

当初は行政府が一方的に立案し施行し、議会開設後も行政に必要な手続きを立法化

するということで議会が憲法に則り必要な法整備をするという議会制民主主義の

考え方とは異なっていました

戦後の新憲法下では選挙で選任された議員が立法し、行政はその法律に基づき施行

することになっているのですが現実はほとんどの法律が行政府そのものが立案し、

自らにやり易い法律が内閣を支持する与党の賛成で成立するということで、いまだに

明治時代の行政至上主義が残っています

つまり明治23年を超えていないという訳です

民主主義は不自由なものです

しかし、手続きと論理は重要であり国が成り立つ唯一の根拠である筈です

諸外国の議員の多くが法曹資格保持者であることと明確な差のある日本の議員との

違いは国民が求めていることの違いにあるのでしょう

「オラが町に新幹線を!」ではなく「新幹線はこのような考え方で整備を!」

となるかどうかがこれからの国の運命を決めてゆくのではないでしょうか

勘違いでなく統治の不備?

またまた学術会議の件で申し訳ありませんが、とんでもないことになっていませんか

最近の菅首相の説明で「受け取った名簿は99人で全員任命し、拒否はしていません」

とのことですが、これが本当なら大問題です

菅首相曰く「任命権者として任命しないことがある」と言っていますが、百歩譲って

認めたとしてもあくまでも首相が首相の権限で判断し、任免を決めるということです

一方、今回学術会議は105名の推薦をしたとのことですから推薦名簿がどこかで

書き換えられ首相のもとには99人分しか届かなかったということです

つまり誰かが推薦人名簿から6名を削除するという判断をしており、首相に相談して

いないことになります

もし、誰かに権限委譲していたのであれば責任は権限委譲した人にあります

権限委譲していなかったのであれば誰かが越権行為で任命権を行使したことになり

統治上の大問題です

権限を委譲されていないにも拘わらず上司に報告をしていないということであれば

上司は報告のプロセスを見直し、違反者には処分をすべきですが、今回そのような

ことは報道されていません

6名を削除したという判断もさることながら意思決定のプロセスに瑕疵があることは

明白でこちらの方がはるかに大きな問題です

判断の是非は様々な意見があり得ますので場合によっては多数が反対する結果が

採択される可能性もあり、そのこと自体に違法性はありませんが、意思決定の

プロセスに問題があり本来なされるべき統治が不完全であるのならば政府機能

そのものの有効性が疑われてしまいます

よく言われる独裁体制下での側近の暴走というラスプーチンのような存在が

チラついてしまい民主主義が根底から覆される危険が迫っていることにどれだけの

人が気付いているのでしょうか

事実の再検証が必要です 

何か勘違いしていませんか?

政府が日本学術会議の任命を6人だけしなかったとのこと

学術会議の推薦に基づき首相が任命するという形式なので、外形的には任命しない

ことはでき、加藤官房長官の説明もそのようなものでした

しかし、首相の任命は形式的なもので正式な政府機関の体裁を整えるためであって

実質的な選任は学術会議に委ねられています

閣僚の任命が天皇陛下の名でなされるのと同じで、もし上記の行動が許されるなら

天皇陛下が閣僚の任命を拒否するようなものです

行政機関には実質的な任命権(例えば内閣閣僚)と形式的な任命権(例えば文科省

による国立大学学長)があり、形式的な任命では母体となる組織の推薦を尊重する

のが民主主義の基本となっています

トランプ流なのか首相が全ての権限を持っていると勘違いしているのでは無いで

しょうか

行政法では「不作為の作為」という考え方があります

簡単な例では、道路工事の際大きな亀裂を作ってしまい通過した車両に損害を与えた

ような場合は作為による結果ですから工事担当会社は責任を問われます

一方、大雨等で道路が陥没しているにも関わらず数日放置して警告の標識も出さな

かった場合は何もしていないのですから通常は責任が発生しません

ここを通過した車両が損害を被った場合は、自己責任として処理されることも

ありますが危険を認識できて放置した、あるいは警告の標識を出していなかった

とすれば「不作為の作為」として責任があるという考え方です

今回の学術会議の任命に当てはめると、推薦名簿と異なる人を任命したのであれば

作為による行為で責任を負う必要があります

また推薦名簿があるにも拘わらず任命しないのであれば、まさに不作為の作為と

なります

いずれの場合にしても判断基準は明確に示されるべきで加藤官房長官の「人事

に関わることは明示しない」というのは誤りです

記者の質問は「何故ですか?」というもので判断の基準を聞いたものです

判断基準を示した上で各個人についてどのように判断したかは任命者に委ねても

良いかもしれませんが、基準が示されないのであれば詭弁に過ぎません

いつも言っていることですが、民主主義とは不自由な制度です

その不自由さのお陰で暴走を抑えようとしているのですが、形式論で全てを

ぶち壊すような手法は決して容認されません

非常に重大なことですが、マスコミを含めて反応が極めて弱いことに危惧の念を

懐かざるを得ません 

日本の停滞はインテリが闘わなくなったから

建築家の安藤忠雄さんの言葉です

さらに「前に進むこと」とは、「問題を起こすこと」とも言っています

全く同感です

世の中が平和で問題を起こす人がいないことは必ずしも良いことではなく、進歩が

止まっていることと同義語なのかもしれません

Black Lives Matterデモの吹き荒れるアメリカは問題を沢山かかえながら、前に

進んでいてその歪みが様々現れているのですが、混乱の中から解決策を見つけて

前進、後退を繰り返しながら少しずつ前に進む努力をしているのではないでしょうか

一方、平和で混乱の無い日本は前進も後退もない状況です

1968年の大学闘争を経験した身から考えると、やはりその時の解決方法が間違って

いたということになります

大学闘争の発端となった東大医学部闘争の本質は暴力や混乱が目的ではなく

「真実の追求」と「社会の枠組みへの挑戦」「不都合な真実との対面」だったの

ですが、それを利用した思想集団の介入による闘争の変化、さらに曖昧で現状維持

を最大の目標とした妥協による解決がその後の停滞を招いたことは疑いありません

まさしくインテリが闘わなかったのです

人民裁判のような過激で長時間に亘る吊し上げに近い集団団交もありましたが

教授側からの論理的な反論は少なく、議論を闘わせる場とはならず報道を観た

外部の人からは力による強制だと思われました、しかし40年以上経過した最近の

教授達の回想による本音は「あの時もっと論理的に議論すべきであった」という

反省でした

インテリである学生に対し、インテリである教授が堂々と議論することなく、逃げ

回ったということになりこのような経緯は最近の政治家にも見られるのではないで

しょうか

不都合な真実に向き合わず、身を切る改革を実践しなかったことが今の低迷と混乱

そして現状維持のぬるま湯体質を育んでしまったと言っても過言ではありません

人間の集団には絶対的な真実はありません、いつも49.5%対50.5%というギリギリの

決断を迫られながら逃げることなくどのようにして49.5%の人達にも納得してもらう

ことができるのかというギリギリの選択を続けざるを得ないのです

その結果として一歩一歩前進できるのです 

何か間違っていませんか?

菅内閣が誕生しましたが、モットーが「国民のために働く内閣」だそうです

えっ!というのが最初に感じたことです

一見、その通りで違和感なく見過ごしてしまいそうで新聞論調も所謂コメンテーター

からも特に異論は出ていません

しかし、民主主義国家で選挙で選ばれた衆議院議員から選出される首相ですから

国民のために働くのは当然で、わざわざこれに言及するのはこれまでの内閣が

国民のために働いていなかったということでしょうか

一方で安倍政権の継続と言っているのですから、前政権も「国民のために働いて

いた」のでしょうね

森・加計・桜も国民のために真実に蓋をしたのでしょう

もう一つ、不思議なのはコロナ対策です

感染症対策をしっかりしてGoToトラベルで旅行に行きなさい、経済活性化ですと

言っていますが、マスク+接触しない+長時間対話しないという感染症対策と旅行や

帰省とは矛盾した指示で国民は混乱します

経済活性化は必要ですが、課題は「アクセルの踏み方」です

現状ではアクセルとブレーキを同時に踏んで頑張りましょうということで、いつかは

摩擦熱で発火しますし大変なエネルギーが必要です

政府の役割は「アクセルの踏み方」を提示することです

例えば、PCR検査は無料で自由に誰でも何回でも受けられます、検査の結果陰性で

あれば自由にGoToトラベルに参加して下さいといえば、旅行者も受け入れ側も

安心して楽しめます

このような施策とお金の使い方が「国民のために働く」ことではないでしょうか

世界の中での国家戦略の無い閉じこもりの矮小な内閣で携帯電話の料金引き下げが

政策のトップに来るのはどういうことでしょうか

携帯を大手3社に固定し、通信と端末販売の兼務を許可し、規制でがんじがらめ

の中での価格高騰は政府の政策の誤りの結果であって声高に料金引き下げを唱える

のはどうでしょうか、まさにお上の指導による料金操作で規制緩和とは正反対です

ここでも規制緩和の掛け声と実態の差異が見られます

政治に期待せず、自らの意思に従って清く正しく生きていこうではありませんか

でも、次の選挙ではしっかり見極めて投票しましょう 

天上がりとJOB型雇用

天上がりとは私の造語で天下りの反対に民間企業から官庁への天上がりです

この場合、天上がってそのままであれば、今度は天下りになるのでおかしなことに

なりますから、短期天上がりといったほうが正確かもしれません

理由は簡単で、民間の効率性の体験を官庁にも移植する、経済環境によって頻繁な

組織変更もある民間の組織運営のノウハウを導入することです

最近のコロナ対策のように未知の感染症への対策は様々な知見と経験、そして幅広い

議論で最適と思われる解を見つけ素早く実施し、経過を観察し有効でなければ即座に

変更をかけると言うことが大切で従来の役所仕事の流れでは対処できないからです

このようなことが実現されるためには民間企業でもJOB型の組織体制を構築する

必要がありますが、ここで大切なのは管理者の育成と教育です

最近急にJOB型雇用という言葉が踊っていますが、変革は容易ではありません

何故ならば根本的な目標の立て方、仕事の進め方が異なるので、雇用者よりも

管理者に対して求められる資質がこれまでと大きく異なるからです

場合によっては、従来の管理者は不適格かもしれません

各企業が早急に組織、仕事のデザイン、評価制度、報酬体系を見直さないとJOB

雇用への移行はできません

現在の論調では報酬制度を変えれば簡単に移行できるような論調ですが、言って

いる本人がJOB型雇用の本質を理解していないのではないでしょうか 

選挙とは

言うまでもなく、選挙は民主主義の土台です

旧聞で申し訳ないですが、選挙年齢が18歳に引き下げられた時多くの高校で新たな

教育がなされるようになっと言う報道がありました

高校生が投票する可能性があるから選挙についての教育をしようと言う趣旨なの

ですが問題はその中身です

何をやったかと言うと、学内に模擬投票所を作り投票のやり方を教えたとのこと

選挙年齢が20歳のときは対象者が社会人か大学生ということで、このようなことを

しないでも自分で判断、行動できると言うことなのでしょうが、今の高校三年生は

十分判断や理解能力は備わっていますしそれだからこそ選挙年齢を引き下げたので

しょう

本当にやるべき教育とは模擬投票ではなく模擬選挙で立候補者の主張をどのように

判断し、自分の考え方をまとめるかと言うことで、18歳に限らず中学や高校の

社会科の授業に取り入れても良いと思います

例えば立候補者が二人いて

Aさん:自分に投票してくれたら皆さんにおまんじゅうを3つあげます

Bくん:自分に投票してくれたら100円ずつ寄付して下さい、そのお金で

    公園の清掃を定期的に行います

と言うような政策を発表したとします

正解はありません

これについてクラスで議論をしてきちっと説明する練習、自分の考えをまとめる

練習をすればとても良い教育になると思いますが、このような取り組みをしている

学校を知りません

世の中は正解がない世界ですから、若いうちから悩み、事実を調べ、整理し

自分の考え方を整理することはとても重要ですが、今の偏差値一辺倒の受験体制

では望むべくもないのかもしれません

残念なことです 

改めて終戦の日を思う

最近「不死身の特攻兵」と言う本を読みました

題名は知っていましたが、先日町の図書館に行ったら現在私が住んでいる当別町の

出身だと言う説明があり、借りてきました

また、先日はネットニュースで台湾の特攻基地で特攻の命令書を書いていた方の

記事を読み、短いインタビューも見ました

95歳と言う年齢とは見えないしっかりした話し方で、しかも当時の命令書をさらさら

と筆ペンで書かれていたのは余程の苦痛だったため70年以上経っても書けると言う

ことなのかもしれません

このようなことが現実で、喧伝されているような美談は作られたものだと言うことが

はっきりわかりますし、疑問は戦後何故このような話が出てこなかったと言う事実

です

一般的には抑圧された状況から解放されるとその反動で時として実際以上に過去の

体験や意見が噴き出すもので、この状況は万国共通です

しかし、日本では少しずつしかも遠慮がちに現れ、多分多くの事実が語られないまま

閉じ込められてしまったのではないかと思います

しっかりとした歴史上の事実の観察と分析、そして反省が無かったためと思われます

未来は過去の上にしかないわけで、歴史をしっかりと事実として認識し、反省すべき

は反省し、残すべきものはきちっと継承することが進歩の第一歩と思います

他国と比較してこのような行動が見られないのは、最近のコロナ対策会議の議事録が

作成されないと言うことと共通点があるように思えます

戦後の民主主義とは単に自由を謳歌するだけで、先人の苦悩や歓喜を土台にしない

どころか歴史を積み重ねると言う努力もしていないように感じられもったいない気がします

良くも悪くも歴史は変えられませんし、冷静な目で客観的に観察、分析するような

教育がなされることを望みます 

政治は腹芸ではない

日本では腹芸ができないと政治家として大成しないと言われますが、本来政治とは

歴史・確率・決断に基づくものでなければ付託された国民の信頼を得ることが

できません

ドゴール大統領は一時間程度の演説は全て暗記、事前に報道関係に配られる原稿と

プロンプター無しで一字一句間違えずに演説したそうです

元々軍人のドゴールはシーザーの時代からの歴史書、特に軍事戦略に関した本は

ほとんど読破したばかりではなく、その内容も暗記しており大統領になってからも

世界各地で起きた事柄に対し、過去の歴史で最も似た状況を想起し、成功事例で

あればそのように、失敗事例であればその原因を探り失敗しないようにアレンジして

物事に対処したと言うことです

つまり、官僚から上がってくる案を承認するのではなく、自分の頭で考え、決断を

していたので演説も内容を全て頭に入れているので暗記をしなくても対応できた

と言うことです

腹芸というのはこれとは対照的で合理的というよりは情緒的な判断となり、他人に

とっては判断基準を窺い知ることが困難で結果的に信頼感が薄くなります

全人格的な信頼が求められることとなり、周囲からのアドバイスがしにくい状況を

作ります

翻って会社内の仕事の遂行を見ても多くの職場でこのような全人格的な従属関係が

あるようで、今回のように突然リモートオフィス環境になると的確な指示が出せなく

なり「ダメ上司」の烙印を押されてしまうことにもなりかねません

同じ農耕民族で人口の多い中国も他人を信頼するのは親類や同じ出身地のみと日本と

共通している点もありますが、統治のシステムには違いがあります

中国は歴史的に北方騎馬民族の侵略を受け、相当期間彼らに支配されていたことが

考え方の差になっているのかもしれません

経済大国から没落の瀬戸際にある日本がこれからの世界で生きてゆくためには

判断基準をもっと合理的でわかりやすいものに変えてゆく必要性がありそうです

3回目の四半世紀

日本では記念日の数え方が10年単位ですが、欧米では数の数え方が十進法よりも

分数で考えることが多いので75年目は3/4世紀になります

四半世紀の3回目という目で観てみるとそれなりの重みがあるようです

当時の20歳、30歳という働き盛りの世代はとうの昔に引退し、現在の20.30歳代は

孫の世代になり経験は薄れてしまっていますので何かを残そうとすればそれなりの

努力が必要です

このような風化を防ぐために一般的には教育が大切ですが、戦後の教育は知識の記憶

が中心となり複雑な状況を把握して論理的な思考で最適解を探すような思考方法は

苦手です

ユダヤ人が約2600年前のバビロンの捕囚を今でも語り伝え、イスラエルとパレスチナ

の対立の原因となっているように解釈を許さない知識というのは複雑な物事の解決

には時として障害となる事があります

このような事と比較すると75年というのはあっという間の出来事ですが、それでも

風化現象が見られることに対しどのような考えるべきでしょうか

人は過去の感傷に浸ることはありますが未来に対して感傷に浸ることはありません

逆に将来を憂うことはありますが過去に対して憂いても事実は変わりません

将来に希望を持ちたければそれを達成するための道筋を考え、一歩一歩実現に向けて

努力する事が必要で、過去の感傷に浸り過去を憂いても前進はありません

終戦時から3世代目がこれからの未来を築くとなれば、これらの世代に対して

正確な知識と未来に対する複雑な解決の道筋を示してあげ、教育する事が2世代目の

役割ではないでしょうか

実体験を持つ第1世代が高齢化する中で、少なくとも実体験を持つ世代から直接

経験を受け継いだ我々第2世代の役割は重要です

最近の番組を見ていると戦争の悲惨さを強調した番組が多いですが、これでは本当の

歴史は伝わらないと思います

何故ならそのような政党、政府、軍隊を作ってきたのも市民なのですから、本当に

伝えなければならないことはいつ、どこで、どうして判断を誤ったのか、その誤り

に気づいたときに修正する事が何故できなかったのかということを正確に伝える

べきでしょう

悪い結果を憂うだけでなく、自らの責任範囲で何を間違ったのかに向き合う事が

辛いですが必要な事です