再び 責任とは
新国立競技場はゼロベースでの見直し、東芝は第三者委員会報告書が出て3社長
の辞任で幕引き、と一見世論に見合った形での決着に言えますが、どうもそれほど
単純ではないようです
新国立競技場ではこれまでの経緯ですでに60億円程度の費用が回収不能とのこと
実に総経費の3%になりますが、どうしてこの段階で見直しなのかが不明です。
評判が悪いから、費用がかかりすぎるからとのことですが、安く作ることは可能なの
でしょうか。 屋根は?可動式座席は?VIPルーム等の施設は?これらが削られては
安くても今後一流の施設としての運用が難しく、今後何年にも亘って膨大な管理
コストがかかるとすれば結局高い買い物になります。 この辺の検証と責任はどう
なっているのでしょうか
東芝問題では多くの識者が第三者委員会報告は落第点と言っています。 “直接
不正を指示した記憶はない”という言葉に戦中の様々な事柄との共通項を観る
思いです。 強制徴用を奨励した覚えはない、集団自決を強いた覚えはないと言い
責任逃れをしてきたのと同質の匂いを嗅ぐのは私だけでしょうか。 事実は集団の
無言の圧力という強制力とそこに至った社会情勢、異を唱えられない心理的圧迫、
これらが結局戦争への道を走り、莫大な犠牲を払ったことになりましたが、結局誰も
責任を取っていません。
戦国武将の責任感はあくまでも結果責任、今風に言えば “Accountability”と
“Integrity”です。 だからこそ秩序が成り立ち、覇権が成立したのです。
圧倒的なパックスアメリカーナの終焉と次の秩序が確立するまでのある意味では
グローバルな戦国時代にあっては戦国武将のような結果に責任を持つ
“サムライ”が求められています