経済活動の原点は自由な心
アダム・スミスの経済学は制約のない自由な市場を前提とし、その場合需給と価格
は自然に均衡し適正な市場価格が形成され、経済活動が営まれるとしています。
一方、マルクスの共産主義社会では全てが平等になり搾取がなくなると主張して
います
さて、結果はどのようないなったのでしょうか? 全てが平等になると人々は
勤労意欲を失い、経済活動は低迷してしまいました。 何故でしょうか?
経済活動の本質は『格差の解消』にあるからです。平等な社会は格差がありません
から経済活動の原点がなくなってしまうのです。 それではアダム・スミス的な社会が
理想かといえば必ずしもそうではありません。 国富論で述べられている社会は
時間的な経過が必ずしも明確に述べられていません。 一定の時間経過を取り
除くと正解かもしれませんが、実際の日常生活ではその時間内では不均衡が生じて
いますし、物理的な距離の制約を考えると均衡が長い時間実現しないことは自明
の理でもあります。 従って、現代社会では市場においても一定の制約を加える
ことで不均衡=格差の是正を図っていますので、アダム・スミスやマルクスのような
机上の理想社会ではないのです
さて、ここから得られすことは『できる限り市場には制約を加えずに不平等を是正
する』という大変困難な状況に直面することになり、様々な議論が生じます
自由と規制の間で揺れ動くことになりますが、経済活動は格差の解消にあるという
前提に立ち返るとできるだけ規制は少ない方が結果的に良い状況が実現する
事になります。その上で一定程度以上に格差が開いた場合は、『弱者救済』の
手段を講じるが競争条件への再参入を促すための救済にとどめるべきで、救済
が目的になってはいけません
最近の政策を見ると“女性の活躍”、“未処分利益への課税”にしても“特区”に
しても規制で格差を是正しようという意図が見え、経済活動が本来的に持つ
格差是正の力を後押しするような政策ではないことに違和感を覚えずには
入られません。 規制で経済活動は活性化しないばかりか、逆に沈滞してしまう
可能性が高いことに危惧の念を抱かざるをえません