“明日は何を新しく始めますか?”
これができれば目標管理は間違いなく成功する

翻訳と文化

明治以来長く高等教育では『原書に当たれ』と言われ学生は懸命に英語、ドイツ語

フランス語を学びながら学問を習得していましたが、戦後になって翻訳書が一般に

出回るようになるといつの間にか海外の学説も日本語で勉強することになりました

このこと自体は良いことですが、一つだけ欠点があります

それは翻訳はあくまでも翻訳であって原書の持つニュアンスや文化的な背景まで

本当に訳されているかどうかという疑問が残ることです

言葉は話されている地域の文化が反映されていますので翻訳した時に文化的背景が

100%伝わるかどうか、あるいは十分な翻訳がなされていても読む側に他国の

文化的背景の知識がなければ理解は完全ではありません

ここでいくつかの例を出して見ます

AccountabilityIntegrityです

一般的にAccountabilityは『説明責任』と訳されています

Accountabilityは結果責任ということで既に結果が現れているため説明ができる状況

ですから、結果に対しての責任の所在を明確にするという意味が強くなります

『説明責任』という翻訳では責任の所在という概念が薄く感じられます

もう一つの例はIntegrityで、『誠実性』と訳されています

英語の辞書によればThe quality of being honest and having strong moral principles 

と書いてあり『強い道徳的原則に則った質の高い誠実さ』となり、単なる『誠実な』

というより強い内容であることがわかります

欧米の社会では『Integrityのない人だ』という表現は単に誠実でないというより強い

意味があり『人として信用できない』という不名誉なことになります

この二つの言葉に限りませんが、背景にあるのはキリスト教です

神に対する責任であり、神との契約の遵守ができているのかということであり、単に

約束した相手や利害関係にある人たちとの約束や誠実さではなく、あくまでも神の前

で誓約できるか、説明できるかということが背景にあります

日本語になった途端にこのような背景にある文化的側面が抜け落ちてしまいますので

なんとなく違和感が残るのでしょう

日本でも『お天道様に対して』という表現がありますが最近の状況はどうでしょうか

社会全体にこのような規範が薄まってしまっているのではないでしょうか

日大のフットボールの件ではまさに『Accountability』が必要なのですが、何が

あったのかという事実とその責任が明確になっていません

社会が社会として成り立つのは法律による規制ではなく個人それぞれが持つ社会規範

を守るということが基本になります