“明日は何を新しく始めますか?”
これができれば目標管理は間違いなく成功する

翻訳に隠された真実

先日のG7オンライン会議で菅首相のオリンピックに関する発言が各国首脳から支持

されたとした記事がありました

発表文によると「コロナに人類が打ち勝った証としてのオリンピック開催が支持

された」とありますが実際には「オリンピック開催に向けての日本政府の努力を

支持する」ということで開催そのものを支持したわけでなく準備活動に努力して

いることを支持しただけなのです

バイデン大統領も「科学的に安全性が立証されれば開催できる」と言っているわけで

無条件に開催を支持しているわけではありません

客観的にみて現状では開催には大きな障害がありますし、それ以上に一方で

ワクチン接種に多くの医療関係者が要請されている中で、オリンピックのために

一万人もの医療関係者を張り付けることが合理的な判断なのか疑います

何が何でもオリンピックを開催し、政権の浮揚策、秋の自民党総裁選、総選挙での

勝利につなげようとしているのであれば、それこそオリンピックの政治的利用に

他なりません

1936年のオリンピック再現をしてはならないのです

リーヘンシュタールの「民族の祭典」は素晴らしい映画ですが歴史的評価は必ずしも

好意的ではありません

文頭にあるようなことが何故起きるのでしょうか

翻訳に原因があるような気がします

原文に当たれば簡単にわかることですが多くの場合翻訳が情報源になっているので

意図的な誤訳があっても指摘することは難しい状況です

明治期の日本の大学では英語であれ、ドイツ語やフランス語であれ原書を読むことが

必須の条件でした

翻訳本が少ないこともありますが、やはり原書で読んで行間まで理解することの

大切さを認識していたからでしょう

因みに専門書を含めてほとんどの文献が自国語で読めるのは日本ぐらいです

ヨーロッパ諸国では多言語を理解する人は多数いますし、アジアやアフリカでは

主として英語の文献が情報源として必須です

これらと比較すれば自国語で様々な情報が得られることは良いことですが、逆に

翻訳が間違っていたり、意図してか無意識かは別にして翻訳をしないことで情報を

断ち切ることもあり得ることですから、やはり原書に当たるという態度は無くさない

ようにしなければなりません