教育は何のためにあるのか
いうまでもない事ですが教育とは考える力を育むためであって知識を増やし
たり、情報を暗記することではありません
明治以来の日本の教育は知識偏重でしたがそれなりの理由もありました
永い鎖国によって欧米諸国との科学技術の格差は歴然としており、ある意味
では独立を保つために科学技術で『追いつけ、追い越せ』は必要だった
のかもしれませんが逆に失うものも多くありました
江戸時代の藩校や私塾はもっぱら考える力を育んでいました
鎖国によって海外諸外国との競争、特に発明発見につながるような競争からは
無縁の世界でしたから、精神的な側面に専念することが出来ました
その為に歴史や先人の知恵を学ぶ事を重んじ,古典を読み込みましたが
それは暗記や知識のためではなく、あくまでも思考能力を育むためでした
その典型が禅問答で高度な知的ゲームとも言えます
このような環境での『先生』の役割は『考える力をつけるための訓練』で
あって知識の伝達ではないことは自明の理です
日経新聞に米国の教育者の言葉として下記のような文章が引用されていました
『凡庸な教師はただ喋る。良い教師は説明する。
優れた教師は自らやってみせる。そして、偉大な教師は心に火をつける。』
藩校や私塾での『白文素読』と『禅問答のような解釈議論』それに『素振りと
乱どり』による身体訓練という組み合わせはまさに『心に火をつける』教育
だったのではないでしょうか
1989年に経済的には世界のトップに近いところまで到達した途端に次の
追いつく目標を失い、以後30年間停滞してしまったのは『心に火をつける』
ことが出来なかったからでしょう
今こそ再び皆が、特に若者が『心に火をつけて』新しい境地を探検することを
願うばかりです
過去の成功体験でオリンピックでこのような事を期待していた人もいたよう
ですが、現実は異なります
本当に身体の中から湧き出るような『火種』が求められます