驚きとは
歴史学者エドワード・T・オドーネルは「歴史とはサプライズの研究である」
と言いましたがサプライズとは何を意味しているのでしょうか
それまでの常識を超えたことが起こる、あるいは起こした時に人々はサプラ
イズ、つまり驚くので記録に残りその蓄積は歴史となるのかもしれないと
考えます
それではそもそも驚くとはどんな時なのでしようか、そしてそれはいつ、誰が
どのようにして認識するのでしょうか
翻って今情報過多の時代に一昔前と同じような驚きがあるのでしょうか
もし無くなってしまったと感じた瞬間に歴史は止まり、人々は人生に対しての
興味を失ってしまうかもしれません
オミクロン株が突然出現した時には一定程度の驚きがあったのでしょうが
たちまちのうちに感染状況、変異の内容、これからの生活に対する影響が
情報として提供され、収まりかけたコロナ感染に対する不安が増したのですが
驚きという感覚ではなく、「やはり」とか「簡単にコロナは収束しない」と
いう常識的な現実に引き戻されただけとも言えます
驚きとは異常現象や超人的なパフォーマンスではなく、もっと日常の中に
あったのではないでしょうか
毎年春になると桜が咲く、雪が溶けるとその下から緑の芝生が見える、白鳥が
毎年同じ場所に飛来するなどが本当の意味での驚きであり、その驚きが
何故だろうかにつながり探究心が芽生えてきます
日常の中の不思議を感じる力がないと驚きませんし、今のように外部からの
情報が「驚きの押し売り」のように氾濫すると人間が本来持っていた感覚が
薄れてしまい、ついには全ての判断基準が受動的になり、即ち情報量の過多が
人の価値を決めてしまうような世の中になってしまったのではないでしょうか
どんなに精緻な気象予測コンピューターがあってもそれにアクセスできない
場所ではやはり指を濡らせて風にかざし天気を読む力が必要になります
経済でも社会現象でもこのように指を濡らせて『風を読む力』が却って必要
になる時代なのかもしれません