“明日は何を新しく始めますか?”
これができれば目標管理は間違いなく成功する

日本の神は八百万

ユダヤ教を元とするキリスト教、イスラム教を含めこれらの宗教は二元論です

一方多民族国家であるインド、中国も日本も多神教です

何故かというと東電に対する地裁判決を聞いて違和感を覚えたからです

賠償額の多寡はともかく経営陣に責任があることに異論はありませんが判決

論旨には多いに異論がありそこに二元論的な発想を感じてしまいます

まず15.7メートルの高さの津波の発生確率が30年間で20%あることを基本と

していますが、実際に巨大地震が発生したので予想が正確であったということ

に異論を挟む人は少ないようですが本当でしょうか、もし予測が13メートル

で実際が15メートルであった場合判決はどのように変わっていたのでしょうか

背景に自然災害も予測できる、それによって災害対応が可能だという危険な

発想があります、例えば噴火湾や阿蘇外輪山形成の巨大噴火は予測できるか

また予測できても対応可能なのか、自然に対する冒涜としか思えません

自然災害を完全に防ぐのではなく段階的な対処を考えるべきでしょう

福島の例を挙げれば注目すべきは原子炉そのものへの地震や津波の直接被害は

軽微であったのですが電源が確保できずに冷却できずに爆発に至ったのです

判決でも水密化工事の不作為も指摘されていましたが防潮堤工事を含め対策に

は何年も必要ですがその間に津波があったら責任はどこにあったのでしょうか

予測をしなかった地震学者でしょうか

電源に関して言えば最大の課題は予備電源が同一レベル、つまり主要電源と

同じ場所にあったということで高所への移設であれば費用も少なく比較的

短時間に完成していたでしょう

これができていれば冷却は可能で爆発はなかったと推論されます

この意味では防ぐよりも発生した場合の対処法に優先順位をつけて逐次遂行

することをしなかったという点では責任を免れません

裁判ではこのような論理構築をして欲しかったのですが白黒という単純な

二元論的な論旨になったのは残念です

自然災害を防げなかったから責任があるのではなく自然災害に対し時間軸と

レベルに応じた対応策を策定し系統的、継続的に対策を実施しなかったこと

に責任があるのです

さもなければ論点は自然災害に対する予測可能性と精度という神学論争の

末に何も進歩しないということが残ります