あまりに時代遅れの「皆んな同じ」意識 その2
かなり前になりますが小学校の同窓会で当時の担任教師とアメリカの「飛び級
制度」について話をしたことがあります
アメリカでは「飛び級」という概念はありません「進捗別クラス」です
一般的に各学年の授業は学期ごと多くは3学期ですがそれぞれの学期ごとに
教科書があり生徒は自分のペースで勉強し教科書が終われば次の学期に進む
ので2~3年すると一年上の教科書を使うようになることがあります
その場合所属クラスを1年上に変わることができるので所謂「飛び級」になり
ますが必ずしも変わる必要はなく友達がいるから同じ学年に留まり教科書だけ
上の学年のものを使うこともできます
ここで示したことでお分かりのように進捗度の把握が明確な学科数学や理科
場合によって語学(英語)ではこのようなことが起きますが音楽や体育では
飛び級はありません
教育はその子の理解度に応じて進めるという概念が明確だからで無理に皆を
同じ進捗に閉じ込めてしまうことはありません
最近の不登校問題では授業が優しすぎてつまらないからという理由もある
そうです
自分はわかっているのに理解の遅い子に授業を合わせるのでつまらないという
ことでしょうが個人の進捗別にすればたちまち解消されます
でも日本では「皆が同じ」でなければならいので理解の早い子は待っていな
ければならず学習の興味を失わせてしまいます
先ほどの例に戻ると、理解の遅かった子もある時点で追いつき、追い越すこと
も多々あるようでシステムとして非常に良くできています
日本ではこのようなやり方を「優等生クラス」のように人格的な呼び方をする
ので当然反発も多くほとんど実施されていません
教育は人物の優劣を決めるのではなく、物事の理解度を深める、そのための
基礎的な知識や思考方法を教えるもので理解の進捗度は一律でないのは当たり
前であたかも長距離レースのように前に出たり後ろに下がったりしながら
ゴールを目指し、教育者はコーチとしてペース配分をアドバイスしたり水や
栄養を補給する役目なのです
日本ではコーチを指導者と呼びますがコーチングとは指導するのではなく
アドバイスなのです