“明日は何を新しく始めますか?”
これができれば目標管理は間違いなく成功する

働き方改革3

今年もそろそろ春闘の季節になりましたが、春闘という労使交渉の方法は20年も

前に破綻しているのではないかという疑問を持っています

きっかけは、膨大な時間と労力をかけてもは実質賃金で週にタバコ一箱ほどのベアを

交渉することに意義があるのかということに気づいたことにあります

ベアということを真剣に考えてみましょう

ベアと仕事内容と労働契約、そして評価方法、これらが結びついているのでしょうか

その心は具体的な業務契約と生産性向上を目指しているのかどうかということです

生産現場を除くとほとんどの事務・管理的仕事については具体的な業務マニュアルや

仕事の進め方に関する具体的な目標がありません、そのため事務・管理部門の

生産性は他国に比べて極端に低いままなっています。 また、残業時間の長さにも

繋がっています

具体的な個人別の目標がないため、その日、あるいはその週にどこまで達成すれば

良いのかが設定できず、上司がいる限り仕事をしているフリをしなければならない

という笑えない現実があるように思います。 自主的に時間管理ができる場合でも、

今日はここまでという区切りがつけ難いこともあるでしょう

ある日突然上司から『例の件、どうなっている?』というような御下問があり、

その前後にたまたま定時退社でもしていたら、評価が低くなるという恐怖感から

逃れるのは難しいでしょう

本当は明確な目標、すなわち『何をいつまで、達成とはこのような状態』そして

『目標時期が早まるのはどんな状況の時か』ということが相互に了解されていれば

定時に帰ろうが残業しようがそのこと自体が評価に影響することはない筈です

残業のように企業あるいは組織体が自発的に解決すべき課題にまで国が介入すること

自体、まさに『世界で最も成功した社会主義国=日本』を表しています

企業経営者よ頑張れ!

働き方改革2

労基法を改正して、残業時間の短縮を目指すようですが、結論を目標にしても達成は

難しく、却って隠れ残業を増やす結果になるのではないだろうか

残業をしなければならない原因とプロセスの改革が本来やるべきことです

もう一つの話題である非正規社員の問題を個人的な経験を基に考えてみます

例その1

ある職場で海外との取引が急に出現したため、英語のできる人材が必要になり

外部から有期雇用で補充したことがあります。 大変よくできる方だったので

正社員にならないかと尋ねてみたら次のような答えがあり、なるほどと納得しました

『私はプロフェッショナルな働き方を求めていて、社員になると異動で異なる職種

に就くことがあり好ましくないので、有期雇用で好んだ条件で働きたい』

とうものでした

例その2

内部監査部門のシステムサポートをしてくれる人材を求めていました。 同時に

内部監査のサポート業務も担当してもらい、特に英語力が求められましたので

TOEIC800点以上、システムサポートができて内部監査に興味を持つ人を有期雇用で

お願いしたところ、人事部からは『こんな人材はいません、条件を緩和して下さい』

とのことでした。 先例から人数は少なくても必ずいるとの確信がありましたので

『この条件で募集し、ダメなら再考します』と言って、募集してもらったところ

最適な人材がすぐに見つかりました。 しかも中国語も堪能で大変活躍してもらう

ことができました

ここにあるように、少数ではありますが本当にプロ意識の高い人が存在するのに

企業側が対応できていない、特に人事が挑戦的な採用をしていない、受け入れ部門も

本当にどんなスキルが必要なのかという見極めをしていないことが多いと考えます

社内でプロを育てるには、必ずしもジョブローテーションが唯一の解決策では

ありません

先日も経産省にプロの統計専門家が少なくなっていて、統計の質が低下して

いるのではないかという記事がありました。 他国ではプロの担当者を育成して

おり問題だという趣旨でしたが、全くその通りだと思います

企業も官庁も明治時代以来の新卒一括採用、ローテーションによる幹部候補生育成、

年功によるステップアップ、評価は横並びの同期間での僅差の査定という発想から

抜け出していないと考えます

新しい時代、特にグローバルな競争の時代に備えた革新が必要とされています

働き方改革

働き方改革、大いに賛成。 しかし非正規社員の問題にせよ残業規制にしても対症療法で

本質を突いていません。 根っこにある問題は生産性の向上とどのようにして結びついて

いるかという観点が抜けていることです。 本来的に経済界が自ら行うべきことである

にもかかわらず政府主導でしか進まないこと自体に危機感を覚えます

残業がなくならないのは『上司がいるから帰れない』という慣行があるからです

経営者がこれら上司の評価を変えれば解決します

もう一つ、労働契約の問題があります。 契約といいながら会社と個人が契約交渉

する場はありませんので、隷属的な契約になっています。 これを正社員という身分

によって定年までの雇用、ボーナスの支給、などでカモフラージュしています

つまり、この隷属的な労働契約を変更しない限り非正規社員の問題も解決しません

定年制度は年齢による差別であるとともに実質的な有期雇用を終身雇用と偽って

いるのです

問題の本質は次の三つ

1.ベアの基礎は何か

2.定年の廃止

3.ボーナスの縮小

高度成長期には一定のインフレ、合理化による労働生産性上昇と産業構造の転換

若年労働力不足が絡み合ってベースアップをする原資が確保できましたが、低成長

になると生産労働人口の年齢上昇もあり個人の労働生産性が上昇しない限り

ベースアップの原資確保は難しくなりました

現在は就労人口に占める第3次産業の比率が高いので、この分野での生産性向上が

必須なので、平均的にできる社員よりもプロフェッショナルな社員が求められます

労働者は自らの実力を高めるような不断の努力と技術習得が必要です

新卒採用でローテーションしながらゼネラリストとして人材育成する社会から

プロフェッショナルとして高い専門性を維持する社会になるのですが、経営者も

一つのプロフェッショナルとして認識し、必ずしも双六的な上がりのポジション

という考えからからの脱却が必要です

このように考えると、先に挙げた三つが障害になります

ベアよりも専門性と生産性向上に対する評価による昇給

専門家であれば定年を設ける必要はない一方、定年前に仕事がなくなることもある

ボーナスは利益配分であれば固定分を廃し給与として毎月支給し、個人の生産性

      向上に応じボーナスを支給する

共通していることは評価方法の変革ですし、実力による評価が定着すれば女性の

活用も高齢者の雇用も外国人の雇用もまったく問題ありません

農産物の規格化

昔ながらの八百屋さんではなんでも好きな数だけ選んで買うことができましたが、

スーパーでは野菜や果物まで袋詰めされ、しかも中身はどれも同じ大きさで、

あたかも工業製品のように売っています。 消費者もそれに慣れてしまって野菜も

同じ大きさ、重さのものが当然と思うようになり、時々“大きさ不揃い”のパックが

安売りされています

考えてみると畑では様々な大きさのものができる訳で、規格外の商品は出荷されない

で農協の売店等で安く売られるか、場合によっては廃棄処分になっているのかも

しれません。 当然その分値段が高くなっています

昔アメリカで暮らしていた時には、スーパーの野菜、果物は全て量り売りになって

いて、各自形やお大きさを見ながら好きなだけ袋に詰めて備え付けの計量器で重さを

測ると値段が印刷されたラベルが出てきて、それを貼ってレジへ向かうというように

なっていましたので一個でも買えましたが、日本では袋に入った数量を買わざるを

えません

流通の効率化のため規格化された箱には一定の数量が入るようになっていて、規格外

のものは流通ルートに乗らず歩留まりは低くなります。 生産者は歩留まりを上げる

ために手間をかけるので当然のことながらコストは高くなります

ある種の回遊魚は集団で行動し、餌を取るためその集団の魚の大きさはほとんど

同じになります。 集団で種の保存を図りますので餌を食べるため集団の中側の

魚が外へ出て餌を食べ、食べ終わると集団の中に入り餌を食べる順番を譲るという

行動を繰り返しているので、結果的にその集団の中では餌を食べる量が一定になる

ことが原因です。 しかし自由に動けない畑の作物はそうはできないので自然と

大小や色付きに差が出ます

それを“選別”という形で形や重さをを揃えてしまう必要があるのでしょうか

自然のものは自然のままでという方が理にかなっているように思えます

自分の目を養い、工夫して生活コストを引き下げるのは先人の知恵で、町の八百屋

さんや魚屋さんは閉店近くなると売れ残りを値引きして処分しますので、顧客も

夕方近くに買い物に来ます。 少し遅れると物がないのでそれぞれの感を働かせる

必要もあり、また客が集中することで活気もできます

小さな努力と才覚が必要で、これに磨きをかけることで他の分野でも活躍できる

ようになります

『自己責任』が養われ、様々なことに対する感覚を研ぎ澄ますことになります

時期尚早

様々な場面でよく聞かれる言葉ですが、要するに結論の先延ばしです

長い日本の歴史の中で生み出された『知恵』であり、厳しい対決を避ける『工夫』

でもあり、また関係者の理解を得るための『時間的猶予』の混在した産物です

しかし、同じような文化を共有している人の間では有効な手段も異文化の混在する

世の中では必ずしも効果を上げないどころか、逆効果になることもあります

話はいささか飛びますが、昨年はオバマ大統領が広島の原爆記念館を訪れ、また

安倍首相がハワイのアリゾナ記念館を訪れました。また、年末には北方領土交渉を

見据えた日露首脳会談も開かれました。 これらはそれぞれ意義深いことですが、

話題の一つとして“謝罪の言葉”が含まれるかどうかということもありました

しかし、謝罪ということであれば、“日本政府が日本国民に対して謝罪すべき”

ではないかと考えます

ポツダム宣言の受諾回答期限が7月末でしたが、当時の政府は国体維持が不明確

として回答しませんでしたし、スイスやスウェーデンの大使館を通じての確認作業も

行いませんでした。 さらに日本の報道機関が『プツダム宣言を無視』という報道

をしたことに対し無視ではなく検討中というような訂正報道も行わなかったため

連合軍は『拒否』と受け取り、対日戦を継続しました

歴史に“もし”はありませんが、7月末の期限までにポツダム宣言を受諾、あるいは

受諾の意思の明確化が行われていたら、広島・長崎の原爆投下もなく、8月9日の

ソ連の対日参戦もありませんでした。 原爆被害もなく、シベリア抑留ということも

避けられたわけです。 結局8月10日になって原爆投下、ソ連参戦という事実を

見て国体護持に関わらずポツダム宣言受諾を通告し終戦に至りました

アメリカの本音は独ソ戦終了後3ヶ月でソ連が対日参戦するという密約を前提とし

終戦後の冷戦を見据えて8月6日までに対日戦を終了させたいということでした

ので原爆投下という見せしめをしてまで対日戦終結を焦っていたのです

この状況で『時期尚早』と『謝罪』を考えると、優柔不断の結論先延ばしにより

犠牲が大幅に増え、今に至るまで未解決の課題を引きずっていますので、まさに

政府はこ国民に対し『謝罪』すべきだと考えています

自らの政府が自らの国民に対して謝罪することで、アメリカに対してのみならず

諸外国に対しても謝罪が可能になり日本の対外的な信頼感は大きく向上するものと

考えます

いわゆる識者もこのような事実を論評しませんが、日本のソフトパワーを高める

ためには必要なことではないでしょうか

あけましておめでとうございます

今年の正月は多くの地域では穏やかに明けましたが、2017年は波乱万丈な年になる

ことも予想されますので、それなりの心構えが必要になるでしょう

さて、昨年11月の米大統領選挙以来政治の世界に新風が吹いています。 残念ながら

必ずしも良い風ばかりではないのですが、今までの政治のあり方を根本から問い直す

ような雰囲気があります

マスメディアを信用せず、直接Twitterなどで発信する

プロの政治家を信用せず、軍関係者と企業経験者を多用する

スピーチライターに頼らず、自ら発言するとともに暗黙の了解ごとを打ち壊す

ここに至るまでの道筋を辿ってみると、企業家としての『マーケッティング手法』

見えてくるのではないでしょうか

大統領選挙の一般投票では3%近くも負けていながら、選挙人数では圧倒的な差で

トランプが勝利しています。 マーケッティング的に見るとニューヨークや

カリフォルニアといった必敗の州では大した選挙運動もせず、大敗を喫するものの

接戦州では大胆な発言で選挙民の心を掴み、オハイオ、ミシガン、ペンシルベニア、

マイアミといった東部の重要州でことごとく勝利多くの選挙人獲得しました

政治家としての信念や信条よりも州ごとの勝敗に特化した戦略だと言えますし

まさにマーケッテインングの勝利と言えます

このような行動が将来的な政治の世界でどの程度受け入れられるかは不明ですが

一つの新しい試みではあります

翻って日本の状況を見ると、世界各地での紛争や政変、主義主張の戦いから

浮き上がって、まるで鎖国状態のように見えます

野党にもう少しマーケッティング的な発想があれば、状況は一変するのでしょうが

古い体質にしがみついている結果、新しい波は起こっていません

労働組合の組織率が3割を切り、特に民間企業での実質的な組織率が非常に低い

現在では労働組合を基盤とした政党には勝ち目がないどころか、与党に切り崩され

た結果支持政党なしの大きな塊が漂流していると考えられます

これが政治的な空白を生み、それが社会全体の活力を奪っているのではない

でしょうか。 様々な選挙での投票率の低下がこれを表していますし、躍動感の

ない社会を生み出しています。

政治とは『自分たちのこと、生活している社会に対する貢献』でもあり『義務』

でもあることを認識したいものです