“明日は何を新しく始めますか?”
これができれば目標管理は間違いなく成功する

自由・人権・都市

最近の風潮として何事に対しても人権ということが声高に叫ばれ、また自由という

ことも大事な論点になっています

しかし、現代の自由は元を正せば自由都市内の自由市民から出てきた概念で中世の

ヨーロッパで領主の束縛から逃れて都市に入り自由都市として領主からの独立を

獲得したのが始まりで、人の行動が完全に個人として自由になることを意味しません

都市の連帯を守るためのルールが存在し権利と義務を相互に認め合うことが求められ

共同体としての規律内での自由という意味です

日本の場合は、中世以前に荘園に隷属していた農民が封建領主の庇護のもと領地内で

存在を安堵されることで隷属から離脱したものの、結局自由都市の形成はなされず

明治革命で市民となり。第二次対戦後の帝国解体によって民主主義的自由を得たので

市民としての契約も無く内容が曖昧ままま自由という言葉のみが飛び交っています

それぞれの国や地域で歴史やその成り立ちは異なりますので必ずしも西欧文明での

自由の概念が正しい訳ではありませんがどんな形にしても権利と義務は表裏一体の

関係でなければ社会は成立しません

歴史の中で長い間種々の異民族に支配された経験のある国、例えばフランスや

中国では国家の前に個人の自立があり常に個人が国家を監視あるいは見極める力が

強くその対案として西欧型民主主義や中華型統制民主主義が生まれました

日本やロシアは伝統的に異民族支配の経験が少なく官僚機構が発達していて

官僚型民主主義といっても良いでしょう

明治初年のように優秀な官僚が統治する場合は成果が上がりますが、官僚機構の

監視役が存在しないので昭和初期のように軍が監視役として登場し結局官僚機構を

破壊し国を滅亡させることもあります

千年にも及ぶ官僚機構による統治体制を全面的に変換するのは非常に難しいので

優秀な官僚機構を維持しつつ、何らかの監視機能を持つことが早急に求められます

その意味では第一種公務員試験の受験者が減少し、且つ若手官僚の退職率が増加

していることは憂慮すべき事態です

官僚の人事権を支配する恐怖政治から脱却すると同時に官僚機構にも競争原理を

導入し真に優秀な人材に活躍の場を提供することが急務です

その第一歩として

1、公務員試験の一種、二種の廃止

2、課長級以上に天上がり制度を導入

3、部長級昇進試験制度の導入(入省時の成績の固定化はドッグイヤーに反する)

これらを提案します

教育は何のためにあるのか

いうまでもない事ですが教育とは考える力を育むためであって知識を増やし

たり、情報を暗記することではありません

明治以来の日本の教育は知識偏重でしたがそれなりの理由もありました

永い鎖国によって欧米諸国との科学技術の格差は歴然としており、ある意味

では独立を保つために科学技術で『追いつけ、追い越せ』は必要だった

のかもしれませんが逆に失うものも多くありました

江戸時代の藩校や私塾はもっぱら考える力を育んでいました

鎖国によって海外諸外国との競争、特に発明発見につながるような競争からは

無縁の世界でしたから、精神的な側面に専念することが出来ました

その為に歴史や先人の知恵を学ぶ事を重んじ,古典を読み込みましたが

それは暗記や知識のためではなく、あくまでも思考能力を育むためでした

その典型が禅問答で高度な知的ゲームとも言えます

このような環境での『先生』の役割は『考える力をつけるための訓練』で

あって知識の伝達ではないことは自明の理です

日経新聞に米国の教育者の言葉として下記のような文章が引用されていました

『凡庸な教師はただ喋る。良い教師は説明する。

優れた教師は自らやってみせる。そして、偉大な教師は心に火をつける。』

藩校や私塾での『白文素読』と『禅問答のような解釈議論』それに『素振りと

乱どり』による身体訓練という組み合わせはまさに『心に火をつける』教育

だったのではないでしょうか

1989年に経済的には世界のトップに近いところまで到達した途端に次の

追いつく目標を失い、以後30年間停滞してしまったのは『心に火をつける』

ことが出来なかったからでしょう

今こそ再び皆が、特に若者が『心に火をつけて』新しい境地を探検することを

願うばかりです

過去の成功体験でオリンピックでこのような事を期待していた人もいたよう

ですが、現実は異なります

本当に身体の中から湧き出るような『火種』が求められます

FIReL:有勇自提起な生活からの提案

日本にある偏見の元凶

COVID-19のデルタ変異株が急速に広まっています

という表現ではなく

新型コロナのインド型変異株が急速に広まっています

というのが日本の報道の主流です

WHOでは新型コロナウィルスは病気の原因、病名はCOVID-19と規定しています

また、発見された地域で名前をつけるのは偏見につながる恐れがあるので変異株の

呼び方をギリシャ語のアルファベットで順番につけることを決定しました

イギリス型はアルファ変異株、インド型はデルタ変異株となりますが日本では

依然として新型コロナでありインド型です

普段の生活では世界標準という概念はほとんど認められていないようです

二つの理由が考えられます

一つは日本で日本語として通じやすい名前を使う、Mac(マック)ではなくマクド

二つ目は特定の国を名指しすることで偏見につながるという意識が低いことです

BLM運動の時でもあたかも日本では差別や偏見がないような風潮がありましたが

新型コロナ感染でも、偏見につながる恐れがあるからと名前を変更したのに日本では

未だに元のまま使って不思議に感じないところに実は無意識な差別や偏見が隠されて

いるのではないかと考えます

実際、さまざまな形での差別や偏見は水俣病患者やハンセン氏病患者に対しても

ありましたし、在日のアジア人に対する差別も広く見られるところです

日本という閉じられた社会の中だけであれば隠せることはできても広くオープンな

社会になればこの様な矛盾は海外からの厳しい目に晒されることになります

先程の二つの理由は実は深く繋がっていて、自由で開かれた社会ではないことの

裏返しになっています

先日のオリンピック開会式演出に関する解任劇でも、今の日本でホロコーストが

どれほど認識されているのでしょうか

テレビニュースで日本在住イスラエル人のコメントが心にこたえます

『広島、長崎の原爆被害を笑いのタネにしたらどう感じますか?』

『日本にばかりいないで海外に出ていろいろな体験をしたらどうですか』という

コメントは全くその通りです

もっと海外に目を向け、海外からの眼もしっかりと受け止めることで真にオープンな

社会が築けるでしょう

FIReL:有勇自提起な生活からの提案

みずほ銀行の体質

大規模なATMシステム障害を起こしたみずほ銀行に対する調査報告書で企業風土の

問題が論じられていました

危機対応、顧客対応、システムに精通する人材の配置に問題があるとのことで

前回のATMトラブルでカードが戻らなくなった際の報告でシステム障害への言及が

なかったとも記されています

しかし、報告とは下が上へ単に情報を上げるだけでなく、責任ある上の人は的確な

質問をする必要があります

何故事故が起きたのか、対策はどうなっているのか、回答が曖昧だったり、納得

できない場合はしつこいぐらいに実際の担当者レベルからの直接の話を聞くように

しなければ都合の悪い、あるいは自分の責任になるような説明や報告は上がって

きません

この様な体質はみずほ銀行だけに顕著なわけではなく日本郵政をはじめとして

多くの大企業で散見される事象ですから上記のような課題を挙げるだけでは

解決には遠く、近い将来再び似た様なことが起こる可能性が高くなります

トップが質問しないのは現場に精通していない、自らの体験が少ないことに原因が

あります

諸外国の組織(企業に限らず政府機関でも)では主要なポジションを占める役職者は

ほとんどの場合現場の状況に精通しています

勿論、現場出身だからというわけでは無く教育を通じて擬似体験をしたり論理的に

筋道立てて因果関係を考慮し的確な質問ができるようになっていますし、このような

質問ができない人は基本的にマネジメントに就けないという厳しさがあります

単に企業風土の問題と言って片付けるのではなく、本質的に社会全体がどう変革

しなければならないのかという点にまで思考を広げないと意味がありません

経済一流、政治三流と言われた時代もありましたが今や経済も二流以下、政治は四流

になってしまった原因はこの辺りにあります

もう一度丹田に力を込めて頑張らないと世界マップから消えてしまいます

FIReL:有勇自提起な生活からの提案

手上げ横断の復活?

幼稚園や小学校生徒は今でも手をあげることが多いようですが、交通マナーを示す

「交通の方法に関する教則」からは削除されていたとの事

幼稚園、学校、家庭での自主的な取り組みが継続されていたと言う事で改めて現場力

の強さに感心します

ただ、現実の場面での違和感は「手は上げているが運転手を見ていない」ことにあり

ます

多くの場合、子供はまっすぐ前を見て、手を上げ、横断歩道を渡っています

ここで大切なのは「相手の目を見ることです」相手を見て、自分を認識してくれ

止まる準備をしているかどうかの確認が必要です

話は飛びますが、講演会での講師の目線、記者会見での政治家や説明者の目線にも

同じことがあり相手を見ないで原稿を読むような場面が多くあります

自らの経験でも講演会や大規模な会議では左右、遠近に視線を振り相手の反応を見

ながら話をし、必要に応じてジョークを混ぜたり、合間を取ったり、声の大小を

変えて集中してもらえるように工夫したものです

相手の目を見ることで言外の会話が成り立つのです

手上げ横断に戻ると相手の目を見て無言の会話をすることが、手を挙げること自体

よりはるかに大切なのですがその事が教育の側面で伝わっていないと思います

日本人の会話下手の根本的な原因かもしれません

そういえばどこかの首相や報道官である官房長官も原稿を見て話をしていますね

中国外交部の汪文斌報道官はしっかりと質問者を見据えて威嚇するように話を

しますし、アメリカのサキ報道官もホワイトハウスの定例記者会見では勿論

質問者を見て発言しています

学校教育の見直しが必要で、外面的な見え方を教えるのではなく、内面的な

いかに考えるのかという思考方法と事実やデータを基礎にした論理的な思考プロセス

を教えるのが教育です

教育が人を育て、人が社会を築くという江戸時代でも雄藩が実践していたことが

現代ではできないのはどうしたことなのでしょうか

社会人教育を含めて日本の教育関連予算はOECD色と比較して圧倒的に低いという

現実を見つめる必要があります

FiReL:有勇自提起な生活からの提案

マイナンバーとマイナンバーカードの不思議

マイナンバー制度はアメリカのSocial Security Numberにヒントを得たものだと考え

ますが本番アメリカではこのカードは薄っぺらな名刺サイズの紙のカードです

私はたまたまラミネーターがあったのでラミネートされ破損しにくくしていました

が普通は何年もするとボロボロになってしまいます、ICチップや磁気テープの付いた

カードではなく必要な時は番号を記入するだけでカードの提示もありません

番号は管理されているのでチェックはできますからこれで十分なのです

確かに時々不正はありますがそれほど大きな問題にはなりません

日本ではどうしてマイナンバーカードが必要で、しかもそのカードをリーダーで読み

取らなければ使えないのでしょうか

しかもソフトが恐ろしく使いにくいので使いたくなくなります

もともと何を目的として、どのような対象者に、どのようにして使って貰えば利便性

が向上するかと言うシミュレーションができていなかったのでしよう

年寄りには使えません

目的が不明確な仕組みに莫大な費用をかけ、結局使い勝手の悪いシステムだけが

残りどこかの請け負った企業だけが儲かると言う仕組みではないでしようか

ETCカードも同じことが言えます

かなり高度なシステムにしてしまったので読み取り機械が高くて、駐車場などでは

設置費用がネックになり普及していません

また複雑なため読取スピードも遅くなっています

通行料金のみであればもっと簡単な設定にしてシンガポールなどのように道路上に

設置した装置から読み取ればスピードを落とさず通過でき、海外ではこれが主流です

機械的にバーで止めなくても不正はカメラとの組み合わせでNシステムのように

後から罰金を徴収すれば十分です

利便性と正義の天秤をどう設定するかとい言う事ですが、日本では正義が大手を

ふっって歩き、個人の利便性や効率は後回しになっています

世界との競争に勝てないわけです