“明日は何を新しく始めますか?”
これができれば目標管理は間違いなく成功する

やはり日本には投資家はいなかった

知り合いのアメリカ人から聞いたちょっと寂しい出来事です

この人は友人の外国人二人と日本国内でクラフトビールを製造販売する会社を

立ち上げました

今年の春から生産を始め先ずは都内の有名レストランに直接販売していて、一般の

流通経路には乗せず特定の店でしか飲めないビールという差別化を図っています

癖のない白ビールで女性をターゲットにしています

彼に聞いて初めて白ビールがというのを知りましたが、ドイツ語あるいは英語での

呼び方から欧米ではちょっと味の異なるビールということで私自身もアメリカ滞在中

にはよく飲んでいました

ビジネスは比較的順調に立ち上がったので、一層の拡大のため資金調達が必要に

なり、個人の投資家を回って小口の投資を呼びかけているという話を聞いたのが

約3ヶ月前

日本でもこのような投資家はいるのかという私の問いかけに『沢山いますよ』

言っていました

ところが最近聞いたところ、資金が集まらないのでアメリカや香港の投資家に

調達先を切り替えているとのこと

『せっかく日本語を勉強してある程度話せるようになったのに必要なくなって

しまったね』と聞いたところ、日本人の投資家もほとんど英語を話すので今までも

それほど日本語は必要なかった。しかし、レストランのシェフと話すときは日本語

が必要だし、日本特有のマナーや話の仕方も難しいとは言っていました

日本にも投資家は沢山いるというということと、資金が集まらないことが結びつかず

聞いたところ、決断が遅い、リスクがある案件にはとても慎重で海外、特に

アメリカや香港、中国の投資家とは判断基準やスピードが全く違うと言うことでした

そこで、先ずは海外で資金調達し、ある程度軌道に乗ってきたらそれをベースに

再び日本人の投資家に呼びかけると言っていました

最近の日経新聞にも似たような記事『日本を捨て脱ムラ社会で起業』がありました

全くその通りの現実を聞いてがっかりしています

実はその前にも変わったデザインのラベルがビンに貼れない、ロゴ入りのキャップが

国内では作ってもらえず世界シェア5割のギリシャ企業から輸入しているという

話を聞いており、高度成長期の企業のチャレンジ精神、とにかくやってみる、

というような決断力が全く失われてしまっていることを感じており、ますます

日本の将来に対し暗い気持ちになっている最近です 

茹でガエルになっていないか?

本当かどうかは別としてよく言われる例えです

熱湯にカエルを入れるとびっくりして飛び出すが、水からゆっくり温めると逃げる

チャンスを逃して茹でガエルになるというものです

さて、最近の日本はどうでしょうか。茹でガエル現象の証拠が沢山あります

ゆっくりした人口減少

人口構成の高齢化

収入は増えないが普段の生活はなんとかなっている

政治に満足していないが急激な改革は望まないし、悪夢のような体験が変化を拒む

消費税を上げるしか逃げ道はないが、今はやりたくない

20,30年後の状況を考えるとこのような状況が徐々に悪化して、いつかは後戻り

できない事態になるのは理解できるか、今は急な変化をしたくない

全く茹でガエルになる過程にあります

これまでの歴史を振り返ると高度成長期の公害問題とその対処が一つの例になります

光化学スモッグ、環七スモッグというのがありました

実際当時海から東京を見ると上空は晴天なのに東京都心の一部だけに雲のような

スモッグが肉眼でも確認できたのです

川崎病など、健康にも甚大な影響がありましたが対策は遅々として進まない状況で

高炉に脱硫装置を設置するとコストが高くなり競争力がなくなる、脱硫装置から

産出する硫黄化合物で硫安の生産が過剰になり関連産業が廃業に追い込まれる

このような反対論が強かったのですが、最終的には政府が音頭を取り、強力な対策を

実施しました

その結果はどうなったのでしょうか

産業の競争力は却って高まり、硫安生産会社が破綻することもなく、そしてもちろん

東京にも青い空が復活したのです

現状を変えることへの不安は誰にでもありますが、それでもやらなければならない

ことはあります

誰かが音頭をとるのを期待するのではなく、音頭を取れる人を担いで変化を

起こさないと本当に茹でガエルになってしまいます

And so, my fellow Americans: 

ask not what your country can do for you

ask what you can do for your country.  
   John F. Kennedy 1/21/1960

民主主義とは何か

議会制民主主義ということを前提に考えてみました

他の制度との比較で考えると相対的に優れた仕組みではありますが、前提条件を

確認しておく必要があります

1.自由な議論ができること

2.多数決の意味を理解すること

3.個が確立していること

それぞれについて内容を見てみましょう

自由な議論ができることは物理的な束縛がないだけではなく、精神的な束縛からも

解放されている必要があります。具体的には身分的な束縛がないということです

多数決というのは議論では解決できない場合の最終解決手段だという認識があること

が必要です。本来は議論の中で妥協点を探るのがベストですが、それができない場合

の解決手段という認識があれば、少数意見を尊重し一定の妥協をするのが本来の姿

でしょう

最後に個の確立がなければ前述の議論も成り立ちません。つまり民主主義の前提は

各個人が自らの言動に責任を持つことにあるのです

このように考えると、今の日本の状況はどうでしょうか

国会では数の論理で議論のないまま与党案件がほとんど修正もされずに成立して

いますし、会社内では正社員制度という身分制的な束縛で自由な発想と行動を

束縛している面が強くあります。教育面でもマルバツ式の唯一の正解を求める意識

が強く本来あるべき真実の追求という側面や、多様な意見の創出を促進することが

弱まっています

民主主義の本来は国民に主権がありますので、主権の発露が必要です

色々な制度に欠陥が多くても、投票という最終手段によって主張はできる訳です

今我々ができることは自らを信じた投票を継続することで変革を求める

ことができるではないでしょうか 

ピンボケの働き方改革

人口が減少し、さらに労働人口が人口減少率を上回る減少をしているなかで

生産性の向上は必須の条件になりますが、最近の議論は生産性改革=残業時間減少

になってしまっているようで残念です

さらに、生産性を測る定義も不明確なままでは何を目指しているのかわかりません

単に、人気取り政策のようになってしまいマスコミからもいわゆる評論家からの

発言もありません

最初に議論しなければならないのは労働契約の見直しと労使が対等に交渉できる

環境の整備にあり、これによって初めて労働者に裁量権が生まれます

現在のように裁量権のない労働環境では『裁量労働制』は絵に描いた餅です

欧米でもアジアでも労働契約の基礎は『何をいつまでに達成するから報酬はいくら』

『そのための権限と義務が明文化され』これについて交渉し、合意し契約に至ります

日本の場合、ほとんどの場合『無限定な労働契約』で様々な仕事の役割を与えられ

労働者には選択の余地がほとんどありません

この基本が不明確では生産性の改革は考えられません

最も特徴的に表れているのが上司がいると帰れないという職場環境ではないで

しょうか

前述したように自分の仕事の定義が明確であれば、本人の裁量で早く帰る、あるいは

遅くまで残るということが自主判断できますが『全人格的労働』のもとでは裁量権は

非常に小さくなってしまいます

個人年度目標に具体的達成目標設定やいつまでに何をらやるかを決め、

進捗は個人に任せることで裁量権が各個人に生まれ、上司がいても

帰れる環境が整うことで生産性改革が進むのではないでしょうか

なぜ、閉塞感なのか

人間は本来変化を嫌います

人間に限らず、動物は一定の生存ルールを守らないと絶滅の危険がありますので

よほどのことがない限り従来の生活パターンを変えることは無いのです

恐竜が絶滅したのは急激な気候変動に対応できず従来通りの生活パターンを継続した

為に死に絶え、その新しい環境に適応できた生物が取り変わることになりました

現代日本を見ると、適度な生活ができ、それなりに物質的にも恵まれていますので

自らリスクを冒して変化を求めることはありません

これだけであれば『みんなハッピー』なのですが、もう一つの心配があります

それは『将来に対する漠然とした不安』なのです

1970年代までは『将来に対する漠然とした希望』があったので現代と比較すれば

遥かに低い生活水準でも『追いつき追い越せ』に情熱を燃やすことで目標もあり

目には見えませんが『希望』がありました

20年ほど前から『世界の先頭を走る』ということで明確な目標が見えなくなり

それと同時に『希望』が『不安』に変わってしまったのです

しかし、政治も社会も会社内でも皆が共通して持てる目標を示していません

変化はしたく無いけれどこのままではなんとなく不安という感情が『閉塞感』と

なっているのでしょう

年齢構成の高齢化も国の予算の2/3を国債に頼る財政もこれからの急速な人口減少も

他国の例を取ることはできません、何故ならば日本が先頭を走っているからです

このような閉塞感を打破するには各自が自らの殻を少しだけ破る勇気と変化に対する

恐怖心を抑える勇気を持つべきでは無いでしょうか 

不作為の作為

学生時代の行政法の授業で初めて聞いた時にはとても新鮮に感じられましたが

残念ながら当時から主流派の意見ではありませんでした

不作為の作為とは何か

法律を適用しない「起訴しない」という行為は法律違反ではありませんが、その

判断には恣意的な意図が生じやすくなりますので、何もしない「起訴しない」こと

自体がが違法だという考え方です

法律があって該当するかどうかを検討するのではなく、まず事実がありその違法性を

立証するために適用できる法律を探して立件するという義務があり、何もしないこと

そのものが問題だという考え方で、行政の世界ではよくある「泣き寝入り」を防ごう

とするものと言っても良いでしょう

政策レベルに眼を転じると、もっと明確に見えてきます

例えば今、日本で根本的に考えなくてはならない課題がたくさんあります

すぐに問題が生じるわけではありませんが中長期的には大きな課題で、解決を

先延ばしするほど難しくなるような事態がたくさんあり、本来政府は対策を提示し

国民の理解を得る(政策提示による選挙)必要がありますが行われていません

これも「不作為の行為」です

Q. 参議院のあり方の提示ではなく、人口減少の中で定員増加という安直な選挙法改正

Q. 世界で最も早い人口構成の高年齢化に対する施策

Q. 人口の高齢化に伴う医療費等の増加に対する抜本的な対策の提示

Q. 急増する国債発行残高に対する償還方法とその影響

Q. 国の歳入比率を考慮すると避けられない消費税増税(欧州諸国では20%台)

Q. 時価総額の10%を超える公的資金の株式市場への投入に対し撤退時期とその影響

これらの課題に対して将来像を提示するのが政治の本来の役割ですが、残念ながら

何もできていません。 まさに不作為の作為なのです

議員内閣制度においてはどうしても行政の力が強くなってしまいます

三権分立の考え方から言えば、立法の意義が疑われる案件に対し憲法裁判所の

ような司法が介入する仕組みも必要かもしれません

また、行政府と一体化した与党が立法府を形骸化してしまうことに対するチュック

機能も必要でしょう

同じ議院内閣制の英国では党議拘束は限られた案件に絞られ、議会での与党と

政府の議論も活発に行われています

ほとんどの案件に党議拘束をかける日本の現状に対する見直し議論もあってしかる

べきですが

ここでも「不作為の作為」が働いています